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オリョール (戦艦) : ミニ英和和英辞書
オリョール (戦艦)[かん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦艦 : [せんかん]
 【名詞】 1. battleship 
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

オリョール (戦艦) : ウィキペディア日本語版
オリョール (戦艦)[かん]

オリョールロシア語:アリョール)は、ロシア帝国で建造された戦艦である。ロシア帝国海軍では艦隊装甲艦()に分類された。いわゆる前弩級戦艦であるボロジノ級の3番艦。艦名はロシア語で「」を意味しているが、これはビザンツ帝国から受け継いだロシア皇帝の紋章である「双頭の鷲」を表している。この艦名は1667年ロシア最初の軍艦へ使用されて以来、代々主力艦に用いられてきた由緒ある艦名であったが、本艦がその名を持つ最後の艦となった〔「オリョール」を艦名とする場合、いくつかの由来が考えられる。ひとつは単純に鳥類の「鷲」、ひとつはロシア皇帝の紋章としての「鷲」、もうひとつはロシアの都市である「オリョール市」である。戦艦の艦名には有名な合戦のあった地名・都市名が用いられることもあるが、オリョール市については戦艦の名の由来となるほどの合戦は行われていないため、第二の意味であると考えられる。この艦が最後なのは、上記第二の意味での用例についてである。第一および第三の意味では、現代に至るまで複数の用例がある。同名艦については関連項目参照のこと。〕。''アリョール)は、ロシア帝国で建造された戦艦である。ロシア帝国海軍では艦隊装甲艦()に分類された。いわゆる前弩級戦艦であるボロジノ級の3番艦。艦名はロシア語で「」を意味しているが、これはビザンツ帝国から受け継いだロシア皇帝の紋章である「双頭の鷲」を表している。この艦名は1667年ロシア最初の軍艦へ使用されて以来、代々主力艦に用いられてきた由緒ある艦名であったが、本艦がその名を持つ最後の艦となった〔「オリョール」を艦名とする場合、いくつかの由来が考えられる。ひとつは単純に鳥類の「鷲」、ひとつはロシア皇帝の紋章としての「鷲」、もうひとつはロシアの都市である「オリョール市」である。戦艦の艦名には有名な合戦のあった地名・都市名が用いられることもあるが、オリョール市については戦艦の名の由来となるほどの合戦は行われていないため、第二の意味であると考えられる。この艦が最後なのは、上記第二の意味での用例についてである。第一および第三の意味では、現代に至るまで複数の用例がある。同名艦については関連項目参照のこと。〕。
== 概要 ==

1900年5月20日(日付はユリウス暦、以下同じ)、サンクトペテルブルクのガレールヌイ島造船所〔現セーヴェルナヤ・ヴェールフィの一部。〕にて起工した。1902年7月6日には進水1904年10月1日に部隊へ配備された。
オリョールの艦長には、1904年4月26日付けでニコライ・ユーンク海軍大佐が任官した。日露戦争へ参加するため、ほかの姉妹艦3 隻および二等防護巡洋艦ジェームチュクとともに第2太平洋艦隊第1装甲艦隊〔日本語での訳し分けが困難であるが、ロシア語でいえば第2太平洋艦隊の場合の「艦隊」は(単一司令官の指揮下にある大艦隊)、第1装甲艦隊の場合は「装甲艦」の「隊」、すなわち(任務ごとに分かれた部隊、分遣隊)である。〕を編成し、極東へ派遣された。しかし、1905年5月14日グレゴリオ暦では5月27日)の日本海海戦では敗北を喫することとなった。
日本海海戦では5発の305mm砲弾、2発の254mm砲弾、39発の152mm砲弾、そして21発の小口径の砲弾を受けたが、沈没に至るような重大な損傷にはならなかった〔「敵の降伏艦降伏時に於ける船体の状態(1)」〕。艦では43名が戦死し、80名近くが負傷した。艦長のユーンクもまた負傷者の中に含まれた。
戦闘ののち、ほとんど戦闘能力を失いつつもオリョールは、戦艦インペラートル・ニコライ1世海防戦艦ゲネラル=アドミラル・アプラクシン、同アドミラル・セニャーヴィン、二等防護巡洋艦イズムルートからなるニコライ・ネボガトフ海軍少将の残存艦隊と合流した。5月15日に包囲された少将は日本軍へ降伏し、オリョールも日本へ明け渡された。ユーンクは戦傷がもとで5月16日に死去した。彼はオリョールの明け渡し合意に参加していなかったこともあり、乗員の願いで日本軍の合意の下、海へ葬られた。
捕獲されたオリョールは2年にわたる修繕工事と改装工事を請け、戦艦石見として日本海軍へ編入され1924年まで使用された。
1932年1935年にはオリョールの水兵だったアレクセイ・ノビコフ=プリボイが自身の海戦体験を綴った「ツシマ」を発表し、1955年には造船技師としてオリョールに乗り込んだウラジミール・ポリエクトヴィッチ・コスチェンコが、海戦の回想録『 '(オリョール上のツシマ)』(邦題:『捕われた鷹』・『もうひとつのツシマ ロシア造船技術将校の証言』)を公刊した。(オリョール上のツシマ)』(邦題:『捕われた鷹』・『もうひとつのツシマ ロシア造船技術将校の証言』)を公刊した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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